2時10分起床、Facebook、メールのチェック、
ウクライナ情勢が非常に危ない、ロシアの覇権主義が発端になって、
ウクライナ東部でも、住民投票など行う機運を伺っている、
プーチン大統領は何を考えているのだ、
ロータリー例会、東邦銀行喜多方支店長佐藤正二さんの卓話、
斎藤清を話、佐藤さんは20年前に、坂下の行員で柳津担当、
当時、斎藤清は鎌倉を引き払い、従兄弟のパーマ屋さんに居候して居た、
お金の問題で、相談を受け、以来繁く通い親しくなったと言う、
明治40年に坂下の漥に生まれる、
父親の働きが悪く、貧困の極み、4歳の時夕張に転居、
ここでも父親の商売の失敗で中学へは進めず、働きに出る、
母親が小学6年の時に亡くなる、
苦労の連続で、職を点々と変え、辛うじて好きだった絵が描いる、
看板屋で芽生えてくる、29歳で木版画を制作、初入選する、
30歳の時、坂下の叔母を尋ねる、
斎藤清が世に出る切っ掛けはサロン・ド・プランタン展に出展し一等賞を受賞、
アメリカで売れるようになる、
44歳の時、サンパウロ・ピエンナーレに凝視を出品、サンパウロ日本人賞受賞、
一躍有名になる、会津の冬を最初20点を発表、
柳津名誉町民となる、福島の各地に作品を贈呈して居た。
80歳で柳津に転居、88歳文化功労者に顕彰される。
90歳、11月14日永眠、柳津町に斎藤清美術館開館
毎年、訪れている、
ビデオも備え付けられて居て気さくな人柄に触れることが出来る。
器用な方で版画ばかりでなく、油彩、デッサン、墨筆画、どれもこれも素晴らしい。
佐藤正二さんは、以来お付き合いをされ、お手紙も多く頂いているようだ。
口癖に言っていたのは、芸術家なんかはつまらない、
死ぬまで作品と付き合わねば成らない、本当に辛いよ、が口癖だったようだ。
誰にも師事を受けず、独自の器用さと、感性を磨き作り上げた作風は、
いつまでも人々の心に訴えるものがある、
娘さんも居たようだが縁を切ったようだ、この辺が頑固と言うか、
斎藤清の心の葛藤があるのだろう、
天気もイイし、ドライブがてらに沼の平へ行く、
途中山都の鉄橋の上に飯豊連峰、写真をパチリ、
沼の平は誰もいない、祭りが終わったのか、福寿草は寂しげに咲いていた、
10万株の福寿草は日本一と豪語している、
温泉でもと、高郷ふれあいランドへ、残念ながら定休日だった、
雷神山の事が以前新聞に載って居た、立ち寄る、
水くれをして居たので、何が植えてあるんですかと尋ねる、
今はレンギョウが満開ですと、、、
やがて花見山のようにするんです、期待してるよ、
ハイまた来てください、
地道に作業してくれる人がいないと、植物は育ってくれない。
花は嘘をつかない、ただ黙って咲いてくれる。
6:30仕事も終わり、新鶴温泉へ、サウナに入り、
椅子にかけ柔軟体操をし、仮眠、起きたら汗がびっしょり、
危ないこう言う時が倒れる前兆、ゆっくりと頭を洗い、落ち着いてから上がった。
毎度毎度三途の川の渡し舟に、行く訳にはいかない、
地蔵菩薩も誤って渡してしまったら帰れなくなる。危ない危ない、、、、、