4月15日(水)早いもんで月半ば

2時10分起床、Facebook、メールのチェック、
ウクライナ情勢が非常に危ない、ロシアの覇権主義が発端になって、
ウクライナ東部でも、住民投票など行う機運を伺っている、
プーチン大統領は何を考えているのだ、

ロータリー例会、東邦銀行喜多方支店長佐藤正二さんの卓話、
斎藤清を話、佐藤さんは20年前に、坂下の行員で柳津担当、
当時、斎藤清は鎌倉を引き払い、従兄弟のパーマ屋さんに居候して居た、
お金の問題で、相談を受け、以来繁く通い親しくなったと言う、
明治40年に坂下の漥に生まれる、
父親の働きが悪く、貧困の極み、4歳の時夕張に転居、
ここでも父親の商売の失敗で中学へは進めず、働きに出る、
母親が小学6年の時に亡くなる、
苦労の連続で、職を点々と変え、辛うじて好きだった絵が描いる、
看板屋で芽生えてくる、29歳で木版画を制作、初入選する、
30歳の時、坂下の叔母を尋ねる、
斎藤清が世に出る切っ掛けはサロン・ド・プランタン展に出展し一等賞を受賞、
アメリカで売れるようになる、
44歳の時、サンパウロ・ピエンナーレに凝視を出品、サンパウロ日本人賞受賞、
一躍有名になる、会津の冬を最初20点を発表、
柳津名誉町民となる、福島の各地に作品を贈呈して居た。
80歳で柳津に転居、88歳文化功労者に顕彰される。
90歳、11月14日永眠、柳津町斎藤清美術館開館
毎年、訪れている、
ビデオも備え付けられて居て気さくな人柄に触れることが出来る。
器用な方で版画ばかりでなく、油彩、デッサン、墨筆画、どれもこれも素晴らしい。

佐藤正二さんは、以来お付き合いをされ、お手紙も多く頂いているようだ。
口癖に言っていたのは、芸術家なんかはつまらない、
死ぬまで作品と付き合わねば成らない、本当に辛いよ、が口癖だったようだ。
誰にも師事を受けず、独自の器用さと、感性を磨き作り上げた作風は、
いつまでも人々の心に訴えるものがある、
娘さんも居たようだが縁を切ったようだ、この辺が頑固と言うか、
斎藤清の心の葛藤があるのだろう、

天気もイイし、ドライブがてらに沼の平へ行く、
途中山都の鉄橋の上に飯豊連峰、写真をパチリ、

沼の平は誰もいない、祭りが終わったのか、福寿草は寂しげに咲いていた、
10万株の福寿草は日本一と豪語している、

温泉でもと、高郷ふれあいランドへ、残念ながら定休日だった、
雷神山の事が以前新聞に載って居た、立ち寄る、
水くれをして居たので、何が植えてあるんですかと尋ねる、
今はレンギョウが満開ですと、、、
やがて花見山のようにするんです、期待してるよ、
ハイまた来てください、
地道に作業してくれる人がいないと、植物は育ってくれない。

花は嘘をつかない、ただ黙って咲いてくれる。

6:30仕事も終わり、新鶴温泉へ、サウナに入り、
椅子にかけ柔軟体操をし、仮眠、起きたら汗がびっしょり、
危ないこう言う時が倒れる前兆、ゆっくりと頭を洗い、落ち着いてから上がった。
毎度毎度三途の川の渡し舟に、行く訳にはいかない、
地蔵菩薩も誤って渡してしまったら帰れなくなる。危ない危ない、、、、、