5月30日(月)行基と徳一 二人の菩薩

3時起床、Facebook、メール、NHKオンラインをチェック、
昨夜の講話、面白かった、喜光寺副住職高次喜勝さん29歳
縁あって二回目講話を聞く、薬師寺は高層高田好胤さんが写経を全国に広め、
薬師寺を再建された、好胤さんは分け隔て無く薬師寺を訪れた人には、
薬師寺の事を分かり易く紹介されていた、
薬師寺高田好胤有りと知らしめた、
喜勝さんも似ている、
中国から仏教が伝わりその多くは玄奘三蔵の教えであった、
道昭(629〜700)日本の法相初伝の祖が持ち帰った、行基はその教えを広く衆生に説いた、
徳一は行基の死後誕生し道昭、行基法相宗を布教する為東北に向かったのだろう
一三権実論争、最澄は徳一の「仏性抄」という書物に反論書を会津に送る、
これに対し徳一と最澄は往復書簡で4年間大論争が始まった、
最澄は一乗説、すべての者は仏となる種を持っていて、みな成仏できると解く、
一方徳一は法相宗の思想ですべての者が悟れるわけではなく、
仏縁が受けられるものとそうでないものがいる、また、悟りにも段階があり
人によりその悟りは異なる、
現実主義の徳一と理想主義の最澄論争だった、
徳一は空海とも論争をした、
その書簡は「真言宗未決文」として密教の疑問点を十一箇条にまとめられた、
行基、徳一は菩薩と呼ばれた、空海が書簡を送った時の宛名に徳一菩薩と書いている、
菩薩の称号は天皇から頂いたものではなく、衆生から自然と呼ばれた名が菩薩だった、
1時間半にわたって懇切丁寧に話された法話はまれびと喜勝さん、現代の徳一菩薩のようであった。

月曜日は陶芸クラブがある、本焼き窯入れをして来る、