3月23日(金)備中松山藩山田方谷

2時起床、昨夜はNHKオンデマンドに不具合が起こり、
電話相談で1時間かけやっと治った、不具合は突然起こるので始末が悪い。
今日からウォーキングを始める、足腰が弱ると人間お終い、
終いには頭まで腐ってしまう、食事はうまい物というより体に良くないもの極力避ける、
規則正しい生活に重点を置く事が大切だ。

英雄たちの選択「幕末の奇跡」テレビを見る

松山藩重臣山田方谷は、幕末、奇跡の藩政改革を行い、
窮地に陥っていた藩の財政をみごとに立て直した。
その評判もあって、松山藩板倉勝静は、幕末の老中にまで上りつめた。
その結果、戊辰(ぼしん)戦争のさなか、
新政府軍から、城の明け渡しをもとめられることになった。
開城か抗戦か?山田方谷に選択が迫られた。
「藩主の意向に従いあくまで抗戦するのか」「民のために、無血開城に踏み切るのか」
山田方谷の究極の決断に迫る

以前岡山に泊まり、朝一番に高梁市に向かい天空の城備中松山城へ登った、
山道を小一時間かかって登り一番乗りに登城した、
三大山城の一つ、城主板倉勝静重臣山田方谷

やがて大河ドラマになるであろう話題の城と山田方谷
貧乏藩高松城を見事7年で借金を返した、
戊辰戦争では反逆無道と揶揄され、方谷は我が身を覚悟で文言を取り消す様迫る、
結果、軽挙暴動に変えて来て方谷は恭順する、
当時多くの偉人は出たが山田方谷の様な偉人は出なかった、
生涯73歳まで母の郷里で塾を開き地域の人々を教えた、
明治政府の要人に誘われたが決して着かず、長瀬塾で多くの人に学問を教えた、
撫育に徹した、

歴史秘話ヒストリア信長公記を書いた太田牛一の記録

歴史上の人物としてこれほどに詳しく語られるのは、
側用人太田牛一が15冊に書き記した信長公記があるからだ、
あの戦国時代に信長に惚れ込み本能寺の変まで詳しく書かれている、
本を買って見た、

序でに歴史秘話ヒストリアで平民宰相の原敬の暗殺も見た、
政党政治の先駆けを作った原敬は平民宰相に相応しく国民の生活を豊かにすべく努力をした、
見逃したドキュメント番組、メルトダウンファイル07、大杉漣さんが吉田所長の役をしてる、
漣さん最後の出演だったのだろう、

セシュウム137は静岡県まで飛んでいた、東京はすっぽり汚染された、
因果関係が明らかになれば莫大な補償は免れない、
時系列にAIを駆使し問題をえぐった、圧力容器を守るため放水を絞った事が最大の原因、
やはり人災だった、