9月13日(日)今日もオンデマンドで街道をゆくを見た

十津川村熊野街道の奥にあり独自の歴史を刻んだ、米が取れず年貢を免除された直轄地で戦があればいの一番に駆けつけ
た、すなわち村民は全てが武士というか戦が出来る準備をしていた、昭和に入り街道が出来、以前のような歴史は壊れた
共同体としての名残はあるが多くの人はこの地を離れた、これでいいのか悪いかは歴史が証明する50年後はどうなっているのか知りたい
会津の歴史も登場した戊辰の役がもたらした原因は藩祖、保科正之に遡る、正之は律儀な人で家光の後見人として幕閣を支えた
会津をまとめる為に15か条の家訓をつくり守らせた、これが最後の容保をしばった、会津には頑なに生きてきた歴史が今も息づいて
いる、会津っぽ、などと言われることに誇りさえ持っている、辱めを受けるなら自害をという歴史だ、日新館教育は会津人の基礎を作った
ならぬことはなりません、このことは今も誇りに思い教育の一環として使っている、しかし徹底はしてない、今の日本に欠かせないのが
日本人としての誇りだ、会津は今後先頭に立ちこのことを訴えることが必要になる司馬さんも最後の武士と褒め称えている、
会津に残されたDNAは日本の歴史を変えるDNAなのかもしれない。
会津高の同窓会が開催された、230名の出席で大いに盛り上がった、講師に18回卒業の佐藤クラレの社長が講演した
秋月悌次郎を上げ語った、秋月はずばぬけて優秀であった江戸で昌平学へ10年通い多くの友でき、日本の行く末を確りと掴んでいた
京都守護職を仰せつかった会津は秋月の交友であった薩摩の西郷と会薩同盟を結び御所を守った、公用方として大いに活躍した、反面妬みもあり
樺太、千島も防人として飛ばされた、出る釘はうたれるという仕打ちを受けた。最後は熊本5校で教勉をとりハーンに神様のような人と言わしめた。