5月11日(金) JC花見例会へ出席

35年前にJC創立メンバーとして在籍、
その頃全国でも町にJCが出来る事は非常に稀なケース
旗振りをした小澤さんは輝いていた、
全国の支援を受けどうにか設立にこぎつけた頃が懐かしい。

スポンサーを買って出た喜多方JC、連日応援に駆けつけてくれた。
確実に若者が動き出し街づくりが始まった。

私は高砂屋の専務として営業を担当していたが、仕事以外のことはなるで疎かった。
そんな矢先の誘いで知り合った若者と夢を膨らました日々が走馬灯のように蘇る。

会津中の若者と知り合った、激論を交わし勉強もした、
33歳の秋に各務原で行われた指導力セミナーで
私は目覚めた、
独立の機運、小さな我が家にスポーツ店を開いた、
二足わらじで半年、忙しかった。
高砂屋を退職しスポーツ店一本で歩む覚悟を決め、
がむしゃらに進んだ。

多い時で80名近くの会員が集い、
熱気にあるれたJC運動は楽しかったし、多いに勉強になったのだろう。

創業したスポーツ店を潰すわけにはいかない、
寝食を忘れて仕事に熱中した。
食事も作る暇がなかったほど
夢中になって育てた、
途中からはJC活動も疎かになり皆から中傷される羽目になったが、辞めることなく
40歳で卒業した。
第二の転機は50万円を投資して、アメリカ研修に参加、
先進地視察デトロイドからサンフランシスコまで
スポーツ店を見て歩いた、
他店舗化模索、銀行に話したら資金は出しますよ、
やって見てはと背中を押された。

大冒険であった、1億の借金を抱え喜多方店をオープンさせた。
喜多方店に全てをかけた、
救いはJC仲間が居たことだった、喜多方モンロー
よそ者を忌み嫌う風習がある、
今では坪15万もしない土地を何と40万を支払って求めた。
ロータリーの誘い、迷ったが決断した、
喜多方人になろう、同時にオープンしたお菓子や、セブンイレブン
建材屋は潰れていない。

最後の救いは、息子たちが後をついでくれた事だ。
私たちはラッキーなことの連続でここまで来られた、
稀に見る幸せもんだ。

そんな思いで昨日のJC例会を見ていた、
今では会員13名、若者の熱気は伺えなかった。
時代の趨勢か、
街の衰退とJCの今を見て、先々に光は見えなかった、
9時過ぎ、誰かが二次会へいくぞ、
憂さ晴らしの二次会には行けなかった。
勇偉くんも一時は在籍、馬が合わなかったのか、
希望を見え出すことが出来なかったのが、退会をした。
若者の気迫はJCの中にはないのかもしれない、
深く潜航した闇の世界に光があるのか♪───O(≧∇≦)O────♪