2月5日(火)大阪にいる

昨日、北海道・東北ブロック協議会の役員会が開かれた、
ここはコスモスクエア国際交流セミナー、昨年も同様に行われた、
今年のブロック総会、青森が担当する、その概要を見ながら意見を述べあった、
6月26日・27日南田温泉ホテルアップルランドで開催、
招待範囲とか講演会をどうするとか、、、
一案としてミズノのSOZO塾を主宰している北野氏を招聘してはどうかの案
本日、ミズノ本社へ出かけ相談してくる由、

東北ブロック懇親会を開き、情報交換、
男の酒飲みは自慢話になって聞いていて飽きて来る。
懇親を深めるには、これが一番なのだが、、、、
好きなものを次から次と注文し一人3100円で済んだ。

明日もここでやるかとの話、缶詰状態で大阪を去る勘定になる。

Facebookをチェックしていたら、柴五郎に当たる、辛酸な生活を余儀無くされた柴五郎、
斗南では、生きて残れたのが不思議なぐらい、
努力の結果、陸軍大将に成った柴五郎、最大の功績は以下の文に掲載されている。

【消えた偉人・物語】柴五郎 日英同盟の陰に公使館の籠城戦
2012.10.27 07:45

 柴五郎(1860〜1945年)の名が歴史の表舞台に登場するのは、
明治33年に清国で勃発した義和団の乱(北清事変)である。
義和団の排外運動によって、
各国の公使館員、武官、キリスト教徒避難民の総勢約4千人は、
北京の公使館区域において55日間の籠城戦を余儀なくされた。

 この時、僅かの日本軍と各国の義勇隊を見事に統率、指揮して、
4万人もの義和団の攻撃から公使館区域を守り抜いたのが駐在武官であった柴である。
 柴の働きは各国から称賛された。
特に英国のマクドナルド公使は、
「北京籠城の功績の半ばは特に勇敢な日本将兵に帰すべきものである」と柴の功績をたたえ、
ビクトリア女王に日本との同盟を強く進言した。
日英同盟締結の陰には柴の存在があったのである。

 柴は、「賊軍」会津の出身でありながら、
陸軍大将にまでなった「不屈の軍人」である。
会津藩士の五男として生まれた柴の生涯は壮絶であった。
戊辰戦争によって、柴の祖母、母、兄嫁、姉と7歳の妹は自刃。
幼い柴は、敵の目を逃れて、自宅の焼け跡から遺骨を拾い集めた。

 捕虜とされた後、一家は陸奥国斗南(青森県むつ市)に移住するが、
極寒の地での生活は困窮を極めた。
「炉辺にありても氷点下十度十五度なり。
炊きたる粥(かゆ)も石のごとく凍り、これを解かして啜(すす)る。
衣服は凍死をまぬかれる程度なれば、
幼き余は冬期間四十日ほど熱病に罹(かか)りたるも、褥(しとね)なければ米俵にもぐりて苦しめらる」
「餓死、凍死を免るるが精一杯なり。
栄養不足のため痩(や)せ衰え、脚気(かっけ)の傾向あり。
寒さひとしお骨を噛む」。後に柴はこう回顧している。
 野良犬の死骸をも食べ、絶望的な境遇を必死に生き抜いた柴を支えたものは、
「朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、
会津藩民言語に絶する狼藉(ろうぜき)を被りたること、
脳裡(のうり)に刻まれて消えず」という会津武士の矜持(きょうじ)であった。

 「非業の最期を遂げられたる祖母、母、姉妹の面影まぶたに浮かびて余を招くがごとく、
懐かしむがごとく、また老衰孤独の余をあわれむがごとし」。
齢(よわい)80を超してもなお、「懊悩流涕(おうのうりゅうてい)やむことなし」と書き残した言葉の意味は重い。(武蔵野大学教授 貝塚茂樹