6月2日(日)覚馬、八重、三郎の墓参り

昨日は立命館大学校友会幹事会が二条朱雀キャンパスで開催された、
今や32万人の校友を排出し、マンモス校に変身した立命館
平成卒も45%に達したという、
女性の進出も40%を超え、医学部以外は全て整った。
事業、決算報告、昨年度校友大会in新潟の報告、未来人材育成基金の創設
今年度京都大会の概要、事業計画、予算案、すべてが可決した。
新たに上がったのが校友会設立100周年記念事業特別委員会の設置
未来人材育成基金の進捗状況、
山中諄会長の突然の辞任、新たな会長に大和工業元社長の村上健治(1970年産社卒)
氏が就任、副会長に新潟の小野道守(1970年産社)が就かれた。

本日はホテルを早々に出発し
駅から100系のバスに乗り山本家の墓参に出かけた、
市バス一日券を買い、宮ノ前で下車、若王子神社から山道で歩くこと30分
同志社墓地に辿り着いた、誰にも会わない、
8時を回ったばかり、ウグイスの囀りを聴きながら歩いた、
京都にもこんな所があるのか、
寂しい墓所だ、

正面に新島襄の墓、隣に八重の墓、少し離れた所に、
山本覚馬の墓、父権八、母佐久、妻の久栄、三郎の墓、
鳥羽伏見の戦いで負傷した覚馬は薩摩藩に幽閉され、
一度も会津には帰らなかった。

覚馬は囚われの身ではあったが、口伝で管見(日本のあるべき姿を箇条書きにした)を
書き上げた、それが小松帯刀西郷隆盛の目に止まり、
京都改革の顧問として活躍することになる。

議会議長、商工会議所会頭、同志社の創立、博覧会の開催、
女紅場の設立、小学校創立、数え切れないほどの京都改革を成し遂げた。

八重は新島襄と夫婦になり、ハンサムウーマンと称される程の活躍、
新島襄を支えた。
三郎の墓もここにあった、三郎の遺体は江戸に運ばれたが、覚馬が恐らく
山本家の墓として設えたように思う。

帰り道、途中で人に会う、一番乗りですかと尋ねられ、そうですね、
どちらから、と尋ねると襄の故郷群馬は安中からですと応える、
暫く襄と八重の話、私は会津から来ましたと言ったら、こりゃ本もんだ。
ではまたいづれかで、、、別れて下山、
永観堂へ行く、以前もみじの頃訪ねたが人が多くて何を見たのか覚えてない、
今回は朝一番の拝観、御朱印を出し、ゆっくりと順路に従って歩く、
浄土宗西山禅林寺派 総本山 永観堂 禅林寺
永観律師によって栄えた、律師は境内に施療院を建て困っている人を助けた、
いつしかここを永観堂と呼ぶようになった、
一番の見所は「みかえり阿弥陀と永観律師物語、
ひがしやまを背景に広大な敷地に多宝塔、臥龍廊、火除けの阿弥陀
みかえり阿弥陀の祀ってある阿弥陀堂、三鈷の松「智慧、慈愛、まごころ」が授かるゆわれ、
釈迦堂、唐門、悲田梅、庭園も素晴らしい、青紅葉の日傘でゆっくりと庭園を回った。

隣には南禅寺があった、ここも時間をかけて参拝、
石川五右衛門、言われの「三門」空門、無相門、無願門、仏教修行の三解脱を表す、
現在の物は藤堂高虎寛永5年に大坂夏の陣で倒れた武士の菩提として再建された。
石川五右衛門の絶景かな、絶景かな、歌舞伎で叫ぶのが有名、

塔頭、天授庵、園遊式のお庭が素晴らしい、

金地院の東照宮、亀島の庭園、
歩き回った、京都は三歩歩けば寺に当たると言われている、
マメ地図を片手にゆっくりと訪ねるたびもいいもんだ。