9月28日(土)天海祭りに参加

3時に起床、Facebook、メールのチェック、
本を読む時間を作らないと机の上、本棚が気になる。
村上春樹の話題本(色彩を持たない、、、)も今だ読んでない、できれば2時間はほしいが、
朝一番に作るしかないようだ。

小学校の運動会が各地で行われている、
絶好の秋晴れ二人の倅どもは子煩悩で運動会を優先して参加、

私は隣町のイベント、天海祭りに出かけた、徳川三代に仕えた天海大僧正は、
高田町の出身、記録によると11歳から14歳まで龍興寺で得度して修行をしたとある。
名は随風と言った、
ご両親の墓もあるが、天海僧正自身は最後まで身上については語らなかった。
天海研究者の多くは天海は会津群高田の出身と伝えているので間違いはないだろう。

幼少の頃は全て推測の域を越えてない、
今日の講演は「天海大僧正の実像〜信念に生きた人〜」と題して寛永寺の住職 浦井正明(しょうみょう)
さんの講演、中世末期から近世初期にかけ大活躍している、
家康亡き後の秀忠は天海に多くを任せ、
日光東照宮寛永寺の開山など徳川家のご意見番として活躍したのである。

主だった足跡は、比叡山延暦寺南光坊として勉学に励む、信長の焼き打ちに会い、
のちに家光に最高を願い、再建に尽力する。
奈良の興福寺でも随風22歳の時法相三論を修める。
武田信玄にも仕える、甲斐に武田神社を守る。
茨城医王山不動院の住職を勤める。
55歳の時、川越大師喜多院に勤め、第27世の法統、名を天海と改める。
日光東照宮寛永寺の建立、
日光山輪王寺に108歳で慈眼大師として永眠された。

天海僧正ゆかりの寺を町の案内で訪ねた、
浄土宗法幢寺、ご本尊は昭和の初期国宝に指定されていたが、
その後の法改正で国の重要文化財になっている。
秘仏で年一回のご開帳、今回は見せて頂いた、銅造阿弥陀如来と脇侍の勢至菩薩観音菩薩
鎌倉時代のもの、善光寺如来の分身、会津善光寺さんとして信仰されている。

天台宗龍興寺へ行く、ここで天海は得度する、名は随風と名乗った、
11歳から14歳まで修行をする、

秋晴れの良き日、歴史探訪としてご満悦だった。