5月18日(日)五十嵐周司逝く

3時起床、Facebook、メールのチェック
五十嵐周司さんがお亡くなりになった、脳梗塞で緊急入院し、
闘病生活4ヶ月、帰らぬ人となってしまった、
昨年、弟の周作さんを亡くし、
追っかけるようにして周司さんも逝ってしまった。

思い起こせば、37年前に坂下町青年会議所を作ろうと毎夜町の若者が集まって
勉強会を重ねていた、そのメンバーの中心に小澤さん、周司さんは、真嶋さん、
町長を勤めた竹内君がいた、
会津には既に若松、喜多方に青年会議所は出来ていた、

紐付き団体でなく、自主財源で自由闊達に動き、
若さ溢れる明るく、豊かな社会を作る事を目標に集った。
チャーターメンバーは、確か72名だったと思う、
設立総会時には議長を勤めたなぁ、
認証症伝達式も盛大に挙行された、
農工商一体となったJC運動は忽ち話題になって各地に広がった、
初代会長を勤めた小澤さんは、県会議員を勤め河沼の星として大活躍をされた、

2代目は、五十嵐周司さんが勤めた、
黒石からあのデカイねぶたを持って来た、
坂下の人は見たこともないあのデカイ、天を焦がす光の入ったねぶたを見て、
若者の力が町の活性化には欠かせないことを知った、

周司さんは、早くから商売にも目覚め峠の茶屋を作り、
続いてあかべこレストランを創業された。
凄い勢いを感じた、
3代目の真嶋さんは、ルティアという結婚式場を作り新しい風を吹き込んだ。

40歳までの年齢制限があるJC運動、
喜多方青年会議所のスポンサーで作ることが出来た、
当時の喜多方JCの会長だった角田さんも一昨年亡くなった。

当時活躍された方々が、政治家を志し、周司さんはいち早く町会議員になり、
竹内君は議員から町長選に打って出た、戦ったのが周司さんだった、
今では共に力尽き、お亡くなりになった、折しも5月新緑の季節、

思い起こせば走馬灯の如く、想い出される、
私は一念発起してバンダイスポーツを創業した、
各務原指導力開発の勉強会に行ったのが、切っ掛けだった。
小林昭一君は、米屋からセブンイレブンを作った、
その後、小澤さんと県会議員の椅子を争った、4年間何故待てなかったのか、
亀裂が走ってしまった、

当時の勢いを無くした坂下町とJC、
今は商工会の青年部が活躍しているようだ、

隣町の柳津、塩田さんが真のJC活動をされている、
多くの若者が花ホテル講演会に集まって来ている、
講師は日本中から来てくれている、
頭が下がる。

昨夜から孫ども4人が合宿と称して泊まっている、
従兄弟同士が仲良く遊んでる姿を見ると仄かな幸せを感じるのである。

孫どもを送り返したら、那須にでも行くか、フラワーガーデンやツツジ園、
鹿の湯もあったなぁ、、、、

送り届けて二人ともダウン、
庭の手入れ、新鶴温泉、相撲、官兵衛で終わってしまった。