11月15日(土)徳一セミナー

3時起床、Facebook、メールのチェック、
冷たい雨、時折みぞれが混じる、
10時からあいづ道も駅で徳一菩薩のセミナーが開催される、
わざわざ奈良薬師寺から高次喜勝さんが講演に来てくださった、
まだ若い、大学では唯識学を研究し、徳一菩薩を中心に学んだ、
徳一菩薩の第一人者かも知れない、
会津まほろば街道推進協議会もかんでいる、
講演題目は、徳一ぬきには語れない会津
冒頭、徳一をしってますか?から始まった、
わからないことだらけの人物像、
生没年、どこの寺院で修行したか、いつ会津に来たか、どれだけお寺を作ったか、
なんで東国会津に来たのか、

徳一の年表
748(天平20年) 徳一誕生?
770(宝亀元年) この頃、徳一は奈良を離れ東国へ移住か?
797(延暦16年) 最澄の写経援助の依頼を受け道忠が寄進
804(延暦23年) 最澄空海が第16次遣唐使船で唐へ出発
806(大同元年) 空海帰国
807(大同2年) 徳一、恵日寺を建立か?
815(弘仁6年) 空海が徳一、広智などに書簡を送り、密教経典の書写を依頼
817(弘仁8年) 最澄が東国を巡錫に赴く、栃木で広智と会う、徳一との論争が広智間で起ってた、
最澄の主張一乗説、すべての者は成仏の種を持っていてみな成仏できる、
徳一の主張、三乗説、すべての者が救われるわけではなく、
仏縁を受けたものとそうでない者がいる、その悟りを開くことが大事
徳一の「仏性抄」に反対し反論書を送る、三一権実論争が始まる、三年間
821(弘仁12年) 最澄没、三一権実論争、終焉

徳一は「真言宗未決文」を著し、空海に送る、
824(天長元年) 徳一76歳で没、
つくられた徳一像、
惠美押勝藤原仲麻呂説、定かでない、
空海は二度にわたって徳一を菩薩と呼んでいる、大師とも呼んでいるが誰が呼んだのか?
徳一の修行は興福寺説と東大寺説がある、当時お寺は学僧が学びのところとして存在してた。
修円との接点も少ない、

仏都会津の始まりは、徳一がなぜ会津にから始まる、徳一なしには語れない。

里まで雪が降りて来た、周りの山々は冠雪し、白鳥飛来で尚更感じる、