12月9日(火)竹鶴政孝物語

12時半起床、昨夜も寝るのが早かった、
鶴瓶の家族に乾杯もやってたが、
眠くて見られなかった、
iPad Airを開きFacebook、メールのチェック、
大きな事件は無い、
いまNHK、朝ドラで人気絶好調のマッサンこと、
竹鶴政孝ニッカウヰスキー創始者を題材に、妻リタことエリーの物語がえらい人気だ、
そこで伝記を読んで見た、
ヒューム英国首相に万年筆一本でウヰスキーの秘密を盗んで行った青年がいた、
と言わせた竹鶴政孝は本場スコットランドで悪戦苦闘してウヰスキー醸造を学んだ。
一番の勘所は蒸留器のバルブ操作を習ったことだ、


リタとも出会いは、蒸留場で研修していた頃だった、政孝は本気で惚れ、
スコットランドに残っても良いとまで思ってた、
リタはあなたは日本でウヰスキーを作るんでしょう、
家族の反対を押し切って日本行きを決断する、

横浜に着いて、摂津酒造阿部に計画書を提出しウヰスキー作りを要望するが、
株主の反対で受け入れられず、仕方なく辞することになる、
一方、ウヰスキーに興味を示していたサントリーの前身、
寿屋の鳥井信治郎が訪れ、
山崎に蒸留場を作りウヰスキー醸造に手助けしてくれと頼まれる、
工場長として破格の報酬が約束された、
順調に推移し日本発のウヰスキー白札が1929年に誕生する、

契約期間が過ぎ、政孝は新地を求め北海道余市に渡る、
ここでウヰスキーを作る決心をする、初めは資金不足、
りんごジュースから始める「大日本果汁株」が前身、
これがやがてニッカウヰスキーの誕生となる、1940年の事
ウヰスキー作りにマジックは無い、
ウヰスキーは地球という有限の資源をお借りしてつくる英知の液体である(命の水)
信念を曲げずに前進する、政孝は本物志向、三級ウヰスキーは作らなかった。
政孝の歩んだ道は愚直なまでになっ直ぐな道、
今は余市を見渡す美園の丘にリタと共に眠っている。
毎日、これを見ないと始まらない、爽やか、健やか、アットホーム的なドラマだ。

今日は孫どもを連れて喜多方RCのXmasパーティに出掛ける、

昨夜のAOC委員会でTOKYOオリンピックに野球、ソフトボールが復活しそう、
ビックニュースだ、もう一度あの笑顔を見たい。

6年後が楽しみになって来た。