3月12日(木)大震災の爪跡


4時半起床、昨夜は遅くまで震災関係の番組を見ていた、
インフラ整備は確実に進んでいる、除染もかなり進んだ、中間貯蔵施設も決まった、
でも、家族を失い、住居を失い、途方に暮れている人は多い、
震災時に死亡した人よりも関連死の方が多くなって来ている、
コミニュティがずだずだにされた、自立出来るものは待っていられないと、
再建に立ち上がっている、4年も経つと風化が始まり、援助を待ってては埒があかない、
明暗が明らかになってきた、歴史を省みると再建を立派に成し遂げた君主は、
其れなりの覚悟を決め殖産に勤めた、
両陛下のお言葉は、心のケアを怠る事なくと強く語られた、

立ち上がる勇気を与えてくれるのは、ボランティアの手助けが必要、
立派な居住など必要ない、癒しや絆を感じられる心のケアが最も大事だ。

当時、お兄さんの仁さんがテレビでこうだったんだという番組を見た、
美談だし日本人の鏡だ。

中国ではいま一人の日本人男性の命懸けの行為が
 国民の間で大きな感動を呼んでいます。

  宮城県女川町の佐藤水産専務・佐藤充さん。
 享年55歳。

  子供の頃から先輩として親しみ、
 石巻木鶏クラブ(『致知』読者の勉強会)の
 大切な仲間でもありました。

 2011年3月11日。
 東日本を巨大地震と大津波が襲ったこの日のことは
 私たちの記憶から一生消えることがないでしょう。
 
  佐藤さんはその時、港のすぐ傍にある会社で
 業務に当たっていました。
 
佐藤水産は東京築地市場をはじめ、
 全国の主要都市に出荷を続ける生ウニの老舗で、
 佐藤さんはその営業責任者でした。

近年では中国遼寧省の大連から研修生を受け入れており、
 3年という期限付きで20人が加工や出荷に携わっていました。

  震災が起きたこの日も、いつもどおり
 冷たい水作業に手をかじかませながら
 和気藹々と仕事に勤しんでいたのです。

午後2時46分、突然の激しい揺れが襲いました。
驚いた研修生たちはすぐに寄宿舎の傍の
小高い場所に避難しました。

しかし彼女たちには津波に対する十分な知識がありません。
佐藤さんは怯えながら寄り添う研修生の姿を発見するや

「もうすぐ津波が来る。早く避難しなさい」
と大声で伝え、高台にある神社まで連れて行きました。

そして、残っている従業員や研修生はいないかと、
自らの危険を省みることなく再び会社に戻ったのです。
 すでに津波は目前に迫っていました。

  水かさは1秒ごとに増していきます。
 佐藤さんは屋上に逃げたものの、
 高台にいる研修生の前でついに社屋ごと津波に呑まれ、
 そのまま行方が分からなくなりました。

 研修生たちはなすすべもなく、
 泣きながら見守ることしかできなかったといいます。

 大雪の中、帰る場所を失い途方に暮れる
 研修生たちを助けたのは、
 佐藤さんの兄で社長の仁さんでした。

 仁さんは悲嘆に暮れる間もなく、
 山手に住む知り合いに助けを求めて研修生の居場所を確保し、
 20人全員を無事中国に帰国させたのです。

「あの時、もし佐藤専務に助けられなかったら、
私たちは全員津波の犠牲になっていた」 

研修生たちがそう涙ながらに語る姿を、
中国のテレビや新聞は一斉に報じました。

報道は国民に大きな反響を呼び、
同国のポータルサイトには、

「彼は愛に国境がないことを教えてくれた」
「彼の殺身成仁精神を中国人は決して忘れない」

という声が殺到しました。

私も佐藤さんをよく知る1人として、
彼の犠牲的精神に心から敬意を表し、
縁あってともに学び、語り合えたことを
誇りに思わずにはいられません。

 佐藤さんは・・・