7月20日(水)真田昌幸の知略

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真田丸の面白さは秀吉亡き後、急転直下家康の天下取りに真田昌幸はどう立ち向かい、
真田の延命に動いたかが面白いところだ、


関ヶ原の合戦には行ってない、秀忠を上田城合戦でチリチリ舞いさせ関ヶ原の合戦に行くのが遅れた、
昌幸、幸村は当然切腹を受ける立場だったが信幸が嘆願し高野山に蟄居で済んだ、
生活の足しに考案されたのが上田の紬織りの真田紐、今でも茶器や目印に使われている、

また、昌幸は昼夜を問わず囲碁ばかりやっていた。
ほかになにもしないので、幸村はなぜ碁ばかりやっているのかと尋ねた。
すると昌幸は「碁は天地方円の象あり、陰陽動静の理あり、風雲変化の機、山河表裏の勢いあり、世道の昇降、人事の盛衰、兵家の奇正攻守、悉(ことごと)くこれに寓せざるはなし」とこたえた。
碁には天地のすべて、陰と陽の動き、世情の変化の時機、自然の動き、世間の昇り下り、人間の栄光と没落、合戦の奇策や正統な戦い方、すべてが含まれている、とこたえた。
そして、そのあと昌幸は早ければ3年、遅くても5年後には関東方と大坂方に分かれて大乱が起こるはずだから、
自分は碁によって戦乱を練りあげて太閤秀吉殿下の大きな恩に報いたいといったという(『爛柯堂棋話』林元美)。ただしこの話は昌幸が死んだ翌年の慶長17年(1612)の逸話ということで、作り話かと思われるが、先にも述べたように昌幸は第一次上田合戦のとき家康軍が二の丸まで乱入してきているというのに碁を打ちつづけていたというほどの碁好きだから、常住座臥、碁を打ちながら人生の先行きどうなるか、
なにかあったときは、なにをどうやるかを考えつづけていたという傍証にはなるだろう。

私も数独を毎日解いている、難しいものになると1時間も考える事もある、
脳を鍛えるにはコレでもかと難問に立ち向かう訓練が大事だ、
人間は欲が深いからあれもこれもと欲張るが、
限られた時間軸で出来る事はそう多くは無い、
陶芸は奥が深い、我慢強く根気よく、思いを巡らせ創作に励む。(*^o^*)