11月28日(水)タモリの人柄

タモリの波瀾万丈の人生をウィキペディアで見ていた、

タモリの名前は森田一義の森田を返してタモリとした様だ。
小学3年の時下校途中に電信柱のワイヤに顔をぶつけ針金の結び目が右目に突き刺さり失明したとの事、
「笑っていいとも」は2014年3月31日をもって終了した、
1982年から32年間全8054回放送された、
「生放送バラエティー番組単独司会最多記録」としてギネス記録に認定された。
歯に衣着せず思った事をズバズバ話す、敵もいるが嫌味はない、笑っていいともでやり過ごす、
赤塚不二夫より学んだ人生君なんだろう。

恩人である赤塚不二夫の死
2008年8月2日、タモリの才能を見抜き、地元・福岡から上京させて、自宅マンションに居候までさせた漫画家・赤塚不二夫が逝去。死去の2日後に事務所を通じて追悼のコメントを発表し、「物心両面の援助は肉親以上のものでした」と赤塚の死を悼み、感謝の言葉も載せた[48]。
同年8月6日の赤塚の通夜、及び8月7日の葬儀・告別式に参列。その告別式では「私もあなたの数多くの作品の一つです」との弔辞を読み上げた[49]。この弔辞は7分56秒にも及ぶものであり、手にしていた紙を何度も見ながら時折涙声で読んでいたが、実際にはその紙は全くの「白紙」で、勧進帳のごとく、何も書いていなかった[50][51]。
なお、この弔辞は葬儀委員長であり、タモリ、赤塚の共通の友人でもある藤子不二雄Aから直に依頼を受けた。また、横澤彪によると、後日行われた『いいとも!』スタッフの通夜で会ったおり、横澤が尋ねると、この事実を認め、前夜に書こうとしたが面倒になったので勧進帳のギャグをやることにしたとのこと。ちなみにオチは「自分のマネージャの名前がトガシ」だから(詳細は『勧進帳』、および『安宅』の項をそれぞれ参照)[52][51]。

恩人赤塚不二夫がいなければいまのタモリは誕生してなかった、
タモリを見抜いた赤塚不二夫は只者に非ず、私ら団塊の世代には、なくてはならない人だった、
破天荒なマネがをするのが大好きだった、

朝一番はウォーキングを兼ねて新鶴温泉へ、音楽を聴きながら椅子にかけ体操を始める、
サウナ、水風呂、ストレッチ体操、これが定番だ、帰って見たテレビは世界旅番組クロアチア大自然
圧倒されるロケーションいっぺんに行って見たくなった、来春には行きたいと思ってる。
昼は「はま寿司」へ平日は90円皿が多い、旨いし安い、高齢者のオンパレード、
帰ってテレビをひねったら38年前に映画化された「遥かなる山の呼ぶ声」がやってた、

高倉健倍賞千恵子が主役、
突然牧場に一人の男がやってくる、母の心に愛の火を灯し、少年にはたくましさと優しさを教え
秋風と共に去って行く、お世話になりました、この家で過ごした事は一生忘れません。
北海道の大自然を背景に描いた感動作、まさかきょう見れるとは思わなかった。


38年も前の作品、高倉健ハナ肇渥美清も今はいない。
ラストシーンは網走刑務所へ向かう列車の中、涙のシーンだった。
明日はやはり山田洋次監督の「息子」が放映される様だ。見たい

iPad が有れば即座に調べられ知ることができる世の中、便利過ぎて怖い様にも思える、
これまでの映画を始め文化の数々も思いのままに調べたり見ることができる。
12月1日からは4K放送が始まる、画素数がハイビジョンの4倍鮮明に見れる、
長生きしたい事は無理からぬ事、人生100歳時代を生き抜いてみせる、
医者に通い過ぎるのも良くない、薬漬けになってしまう、
人体は精巧に出来ていて病原菌を退治する細胞が備わっている、
ストレスを持たず、平々凡々と気楽に生きるのが長生きのコツということになる。