8月12日(日)期待されていた浦和が

孫の心大と快がお泊まりした、じっちゃん何時に起きるの、2時半か、分かった。
僕も起きるから、
昨夜は星空ウォッチングが三の倉で行われた、
雲行きが怪しかったが、ばっちゃん、じっちゃん、心大、快で始めて参加、
途中から激しい雨、これでは天体ショーは無理だな、残念来年だ、
なだめて坂下の回転寿司やへ、満員御礼で少し待たされたが順が来て有り付く、
快はアトピーで悩まされやっとのことで食べられる様になったが、食べるのは決まって
河童巻きとツナ、ポテトフライ、
心大は小さい割にはマグロづくしで7皿平らげる、
新鶴家は自由に遊べるから天国なのだろう、
iPadiPhoneをいじくり回しいつの間にか寝たかと思ったら2時半には起きて来た。
兄弟仲がいい、朝はカレーを食べ、迎えにくる時間までiPadからテレビに写して、
天体ショーを心大が解説、次はどれ、自由に宇宙を操り、解説文を読む、
じっちゃん、ばっちゃんも感心して聞いていた。

老夫婦は米沢へ、先週に続いて映画鑑賞、少年Hを見てきた、
妹尾河童著者、本ではまだ半分しか読んでないが、映画は降旗監督、水谷豊、伊藤蘭
子役のHを演じた吉岡竜輝、妹役の花田優里音、考えされられたいい映画だった。
テロップには、いま伝えたい、戦争を生き抜いた「名もなき家族」の愛と真実の物語とある。
見ておいた方がいいと思う。
心大があの時代に生きたら、
恐らくHのような振る舞いをしたかも知れないと勝手に思っていた。

米沢も暑かった、何時ものコース、上杉神社前で冷やしラーメンを食べ、
美味いもんを買い、小野川温泉200円銭湯に入る、47度は有ったかなぁ、
熱くて入れない、水でうめたら悪いし、困っていたら地元の人が
うめてくれた、ここは熱いので有名だ、30分ほど楽しんで家路に着く。

八重の桜、京都編が始まった、一変してハンサムウーマンの世界が繰り広げられる。


致知出版社の「人間力メルマガ」-----2013年8月11日 ◆



     昨日行われた夏の甲子園大会一回戦で
     屈指の好カードといわれた浦和学院仙台育英

     壮絶な打撃戦を仙台育英が制し、
     サヨナラ勝ちを収めましたが、
     両校の選手の奮闘ぶりは大きな感動を呼びました。

     ちょうど現在発行中の『致知』9月号に、
     浦和学院高校野球部の森士監督の随想記事が
     掲載されていますので、本日はその一部をお届けします。



┌───今月の注目記事───────────────────────┐



     「人生のメンバー外になるな」


        森 士(もり・おさむ=浦和学院高等学校硬式野球部監督)

              『致知』2013年9月号
               致知随想より


└─────────────────────────────────┘


二〇一三年四月三日、春の甲子園
我われ浦和学院高等学校は初めて頂点に立った。

苦節二十二年――。
振り返るといろいろなことが頭の中を駆け巡る。

その都度目の前に敵が現れ、
思うようにいかないことの連続であったが、
生徒や家族、守るべき存在がいたからこそ
頑張ってこられたのだろう。

今回優勝できた一番の要因は私自身の意識にあると思う。
まだまだ未熟だが、やはりトップに立っている
人間の器を広げないと組織は伸びていかない。

教育とは自分自身を磨くことだと日々実感している。

甲子園優勝は夢のような瞬間だった。

しかし、それ以上に私が誇っていることは、
この二十二年間、春夏秋とある埼玉県大会で
勝戦に行っていない年が一度もないということだ。

毎年生徒が入れ替わる高校野球では、
時としていい選手が集まらないこともある。

だからといって、「今年は諦めて来年勝てばいい」という
チームづくりは一切してこなかった。

集まってくれた生徒が常に主人公であり、
とにかくいま目の前の代に懸ける。
その積み重ねが成果に繋がったのではないだろうか。

私が今日あるのは上尾高校時代の恩師・野本喜一郎監督が
いてくださったからに他ならない。

大学時代、私は怪我に泣かされ、
このまま選手として続けるか、指導の道に進むか悩んでいた。

野本監督は上尾高校から浦和学院高校に移られていたが、
そんな時、野本監督から
「もし指導者を志すなら、手伝わないか」と
声を掛けていただいた。


ところが、である。

大学四年の時、野本監督はすい臓がんで亡くなってしまった。
その年、浦和学院は初の甲子園出場を果たし、
ベスト4まで勝ち進んだのだが、秋の大会では一回戦負け。

選手たちは恩師を亡くした悲しみに
打ちひしがれていたようだった。

そんな彼らの姿を見た時に、学校さえ違うものの、
同じ師のもとに集った一人の人間として、
残された後輩たちに何か手助けができないだろうかと思い、
師の亡き後の浦和学院高校を守り立てようと決めた。

五年間のコーチ指導を経て、
監督に就任したのは一九九一年、二十七歳の時。

以来、負けたら終わりという勝負の世界に
ずっと身を置いてきた。

その中で何が勝敗を分けるのかと考えると、
それは瞬間的集中力の継続、に尽きるのではないかと思う。

私はよく生徒たちに


「野球とは人生一生のドラマを二時間に凝縮したもの」


と言っている。

その時その時の決断が後の人生を大きく左右するように、
野球の試合も一瞬のパフォーマンス次第で
状況は目まぐるしく変化していく。

例えば……

我々野球部は三つのモットーを掲げている。
⒈自分が自分を高める責任

⒉後輩を育てる責任

⒊組織全体を高める責任

森 おさむ監督はいう、私は現役時代、一度もベンチに入ったことはないメンバーだった、
しかし指導者として人生のメンバーにはなれている、
だからたとえベンチ入りが出来なくても、人生のメンバー外になるな、と言っているそうだ。