5月7日(土)長かったGW最終土日、RC60周年記念誌掲載原稿

2時起床、Facebook、メール、NHKオンラインをチェック、
60周年記念誌掲載原稿
歴史と伝統を刻んだ喜多方ロータリー第51代目会長を終えて
2006〜2007年度、第51代会長 桑原勇健
創立60周年を迎えた喜多方ロータリークラブ51代目の会長を勤め、その思い出を振り返ります、
始まりは7月4日、理事会、例会から私の年度は始まりました、
会長としての挨拶は会員諸兄のご協力を切にお願いするのみでした、
幹事を引き受けてくれた渡部隆男君には夫婦同然二人三脚のコンビで協力を頂きました、
その彼も残念ながら翌年交通事故に遭い天国へ召されたことは痛恨の極みです、
事業の始まりは、インターアクト年次大会、喜多方工業高校がホストで猪苗代磐梯青少年の家で開催、
翌日はガバナー公式訪問、会津10クラブ合同で開催された、良い点は各クラブの事業内容が分かった事、
悪い点は細かい指導ができなかった事、会員からの質問も多かった、
結局このやり方はこの年だけで終わり、翌年は通常の公式訪問に戻された。
重点事業は地球温暖化防止としてアイドリングストップキャンペーンの実施、
喜多方中央クラブと歩調を合わせた、
ステッカーを作り各関係機関に配布、会津の10クラブにも拡がり大きな成果を上げました、
2つ目は職場訪問移動例会、東北電力喜多方支店長芳賀さんの協力を得て女川原発を見学
厳重な管理体制、完璧な安全防護を目の当たりにしてこれ以上の安全は無いと再確認したことを思い出されます、
もう一つの思い出は、吉原輝さんを迎えてのニューイヤーコンサートを開催、
吉原さんは財団奨学生として喜多方クラブがお世話しイタリア留学をされた、
その後ドイツシュトットガルト国立音楽大学大学院を卒業されドイツで活躍されていた、
山形でコンサートの計画が進み、喜多方でもお願いしたところ快諾を得てプラザ大ホールに
小中学校1000名の生徒さんを招き大コンサートを開くことができた、
「ドイツから日本へ歌と話で綴る音楽の旅」奥様の若槻量子様、ピアニストのフェリックス、
素晴らしい公演をすることができた、
残念な事は、私の年度で3人の現役会員が亡くなられた、
室井滉先生、冠木喜一郎様、宮澤繁人様、
お世話になった事、楽しかった事が今でも時折想い出される今日この頃です。
渡部隆男家族に手紙を出した文、
追憶
私は2006年から2007年、喜多方ロータリクラブの会長をした桑原勇健と言います、
渡部隆男君とは2005年の会長エレクト時より幹事を引き受けて頂き、
以来2年半に渡り夫婦同然二人三脚のコンビを組みクラブ運営に奔走いたしました、
隆男君はお仕事もバリバリの現役で、とても幹事など引き受けられないと何度も断られていましたが、
私も隆男君以外に幹事をお願いする人はいないと何度もお誘いし遂に受けて頂いた経緯があります、
仕事の合間で結構です、無理はなさらずともどうにかなります、
いざ、年度が始まりと次から次と仕事が舞い込みロータリー漬けにしてしまいました、
対外的な事、クラブ内の日程調整、とても隆男君でなければこなせなかった事も事実です
私のような者でも会長を勤め上げられたのは、隆男君あっての事でした。
私は酒を飲まなかったので、各種会合には隆男君と一緒の出席で帰りは決まって
私が運転しお送り致しました、彼は会長すみませんと丁重に挨拶され、
別れには車が見えなくなるまで見送ってくれました、
途中の車の中では人生あれこれの話に花を咲かせ事も、
つい昨日の事ように思い出されます、
世界を股にかけビジネス戦士として活躍され、
会津の山奥では本来の力量を発揮する事は到底出来なかったじれったさも漏らしておりました。
俺はもう一度、大きな仕事をしてみたい、今の仕事では未来が無いのですよ、
頭脳明晰な隆男君にもう一度世界を自由に羽ばたかせたかった、
喜多方には藤樹学を学ぶ人が大勢います、中江藤樹は脱藩して故郷の母を介護し、
傍ら陽明学を教えていました、
禅の教えに、今日一日を一生になぞらえ覚悟を決め生きる事の重要さを教えています、
人の一生は一瞬の光に似て儚いもの、私にとって隆男君は一生忘れることの出来ない人です、
私の心の中でいつまでも生き続ける事でしょう、
今度会う時は隆男君が会長で私が幹事を勤め、多くの人に喜ばれる活動をしたいものです、
今となっては、ただご冥福を心からお祈りするばかりです、
合掌