あまり眠れてない、12時を回ると眠くなくなる、
今年100周年を迎えた坂東俘虜収容所の物語をNHKドキュメントで放映された、約1000名のドイツ人が捕虜となりここ坂東に収容された、当時所長だったのは松江豊寿(会津出身)、
豊寿はドイツ人を丁重に扱った、自由に収容所を開放し市民と友好を楽しませた、やがて捕虜達は祖国ベートーヴェンの第九の演奏を企画し松江に申し出た、松江は二つ返事で承諾、アジアで初の第九の演奏が披露された。
100年経って有効の輪は広がり鳴門とドイツが深い絆で結ばれるようになった。
ドイツ人は恩を忘れない優秀な民族、かってドイツ留学した吉原輝さんは東日本大震災の支援金として多額の金を贈ってくれた、
御礼に佐原夫妻と高橋伝さんそれに私がドイツに渡ったが大歓迎を受け恐縮した事が思い出す。
ドイツ人と日本人は馬が合うと言うかすぐに仲良くできる関係にある。
松江豊寿の胸像が記念に建立された、松江は会津武士の流れを汲む立派な方、武士の情けをドイツ人に注ぎ込んだのだろう、
後に若松市長を一期された。
ドイツ人俘虜からの手紙
●ポールクーリー(リューデンシャイト市在住)
「私は、今度の第二次世界大戦にも召集をうけ、運わるくソ連の捕虜となり、1956年に解放されましたが、ソ連のラーゲルで冷酷と非情をいやというほど知らされたとき、私の脳裏に浮かんできたのは、バンドウのことでありました。バンドウにこそ国境を越えた人間同士の真の友愛の灯がともっていたのでした。…私は確信をもっていえます。世界のどこにバンドウのようなラーゲルが存在したでしょうか。世界のどこにマツエ大佐のようなラーゲルコマンダーがいたでしょうか。」
●エドアルド・ライポルト(コーブルグ市在住)
「懐かしきバンドウの皆さま。私は今から47年前、貴町の俘虜収容所にいた元俘虜であります。バンドウラーゲルの5ヵ年は、歳月がどんなに経過しても、私たちの心の中で色褪せることはありません。否、ますます鮮やかによみがえります。あのころの仲間で、現在も生き残って西ドイツに住んでいる者のうち、連絡のとれる33名は、年に何回かフランクフルトに集まって「バンドウを偲ぶ会」をもう20数年続けております。会合のたびに、私たちはバンドウのめいめいの青春の日々を限りなく懐かしみ、遥かな御地へ熱い思いを馳せているのです。…目をつむると今もまざまざと、マツエ大佐、バラック、町のたたずまい、山や森や野原などが瞼に浮かんできます。…」
梅宮辰夫が亡くなった、81歳、任侠映画で一世を風靡した、昭和がまた一つ消えた。
三人とも今年現役のまま亡くなられた、
2019・3、萩原健一
2019・10、八千草薫
2019・12、梅宮辰夫
やすらぎの郷に出演してた。まさに昭和は遠くなりにけり、、、。ご冥福を祈ります。
年末恒例の一文字が発表された、清水寺の森貫主揮毫、恒例行事だ、
令には深い意味が込められている。