10月8日(月) 磐越西線のこと

朝霧が掛かっている、寒そう、今日は体育の日、元気出して出かけるぞ\(^o^)/
iPhone5忍ばせ、ウォーキングに出掛ける、チャレッシュの歌を聞きながらだ。

昨夜は大町四つ角に出来た、イタリア料理店(名前は忘れた)で、
会津まちづくり応援隊と
七日町まちづくりに関して意見交換会をし
その後会食をした、
スタッフも多く本格的、格安料金で旨かった、
2500円とは思えないほどもサービス、

あいづ家さんも、強敵現るで戦々恐々、
切磋琢磨と言う事もある、食文化は競って美味しくなる。

若松駅長鈴木さんのミニデスティネーションとして10月・11月は気合が入っているとの事だ、
渋川会長からは特区構想があり、七日町が益々面白くなりそうと謎かけをする。

磐越西線を造った人の話

磐越西線はもともと私鉄でした。それが今存在するということは当然造った人がいます。
それは会津出身の福島県知事・故日下義雄先生です。

この日下義雄先生は会津発展の基礎つくった立役者そのものなんです。
なのに「日下義雄」の名を知っている会津人はすくない。

なぜ会津の人は彼を顕彰できないのでしょうか?

日下義雄先生は元の名を「石田伍助」といい会津武士の家系に生まれ、
函館戦争に参戦して敗北、捕虜となり「石田義雄」に改め、
その後、長州日下家の養子になったといわれています。

井上馨の知遇をえて使節団に加わりやがて帰国しました。
この留学の経験を生かして初代長崎県令に就任、水道の整備など多大な功績をあげました。

明治維新からずっと主に鹿児島、熊本出身者が任命されていた
福島県令(のちの知事)に地元出身として初めて1892年任命され、
彼の尽力で1896年設立された岩越鉄道株式会社は、
のちの磐越西線・郡山〜喜多方間を開通させました。

つまり磐越西線は、会津人が中心となって建設したマイレールだったのです。
じゃ会津は発展したのかって?若松市は3万から10万に、
北方は喜多方市になり人口が5倍近くまで膨れ上がりました。

よく見ると喜多方、塩川、広田、東長原磐梯町会津若松の各駅には貨物用の引き込み線路跡が残っています。それぞれに大企業が進出、多大な経済効果をもたらしました。
会津若松駅の貨物ヤード跡はいまのダイユー8になっています。

あと2年で、JR磐越西線の全通から100年になります。
今は自動車交通が主役で磐越自動車道も整備され、
特に平成生まれの方は磐越西線に乗ったこと無いかもしれません。

もっともな話だ、廃止するのは簡単だ、だが再度敷設しようとしても絶対にできない。
鉄道には夢がある、野越え山越え遥々と、今は鉄橋渡るぞと、と歌われたように自然と共和する
ハーモニーが聞こえる。

会津線も三島ー只見は恐らく強烈なリーダーシップが働かない限り絶望に近い。

先人の功績を見直さず、高速道路一辺倒の今の風潮では、
磐越西線にもいずれ津川〜野沢の部分廃止の話も出るかもしれません。
そのときになってジタバタしても何にも始まりません。

いまの磐越西線の衰退は会津経済の行く末をそのまま暗示しているような気がしてならないのです
(写真は会津若松市史8巻)




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