3時起床、寝起きの支度をして書斎へ、
会津人群像NO37特集戊辰150年今に伝える斗南のおもかげ、
悲劇の家老梶原平馬の生涯を読んでいた、
書いたのは河野十四生氏、梶原平馬にスポットを当てた、
治安の乱れた京の街を如何に回復させるかで幕閣はもめたが何故か会津に白羽の矢が向けられた、
幕府に忠実な会津には藩祖保科正之の家訓があった、
文久2年会津藩兵1000名が京都入り弱冠20歳の梶原平馬は容保の脇を固めた
悲劇はここから始まった、守護職を預かった容保は孝明天皇の信頼厚く京都の治安を守り
活躍した、薩摩藩は外様雄藩徳川幕府では今の日本を守れないと察し倒幕に動く、
長州、土佐も連合を組む、孝明天皇の崩御が引き金になり岩倉具視の策略
薩長同盟が成立して鳥羽伏見の戦いが起こる、
錦旗を掲げ雪崩を打って攻め込む薩長同盟に幕府は遂に無血開城に迫られる
会津は天皇にも使え、幕府にも最大の使いをしたが慶喜にしてやられる、
戊辰の役の始まり、梶原平馬は武器の調達をして越後に入る、
奥羽越列藩同盟を漕ぎ着けたのも梶原平馬が筆頭、火蓋は白河城から始まる
筆頭家老の西郷頼母が仕切ったが大敗する、押し寄せる西軍に入り口で構える会津軍、
武器の差もあったか押し切られる所が多かった、
籠城を決め一ヶ月凄まじい戦いが繰り広げられた、
西郷頼母家は智恵子を始め一族22名が自刃、ほかに柴家、内藤家、
坂下では神保家が自刃、併せて230余名の婦女子が自刃した、
7年前にNHK大河ドラマ八重の桜が放映されたとき日本中が会津の悲劇を始めて知った、
再放送が決まり今月17日から始まる、綾瀬はるかの八重の活躍がまた観られるようだ、
籠城戦の逸話に唐人凧を揚げた少年の話、揚げたのは出羽房吉、後の出羽重遠
東郷平八郎元帥の後に海軍大将になった人だ、
籠城一ヶ月西軍は34藩に膨れ上がり10万人が押し寄せた、
狼藉、窃盗、強姦で会津は滅茶苦茶にされた、
9月23日白旗を上げ降参、政府軍に桐野利秋、山縣有朋、
会津藩は秋月悌次郎、容保、容大家老の萱野権兵衛、梶原平馬、内藤助右衛門、手代木直右衛門、
後沙汰は籠城組は猪苗代へ5354名、城外で戦った佐川官兵衛他740余名は塩川へ蟄居、
会津藩は断絶され1万7千余名が斗南へ向かった、
陸奥斗南は極寒の地多くの藩士は飢えと寒さに倒れた、
青森のあちこちに会津の歴史が刻まれた、
梶原平馬は斗南から北海道根室へ役所の務めをされたが47歳で死去された、
会津の恩人梶原平馬はひっそりと根室に眠っている、