2月3日(水)二階おろしが始まった、健康マージャン昨日も一人勝ち、河井杏里議員辞職を決意⁉️、秋月悌次郎の人柄

2時起床、血圧測定 131/75、脈 73、血圧測定機もイカれてきたか、何度測ってもその都度違う。

買い掛けの時がやってきたか、、、。

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古狸、政界を従事ってるかに見える二階幹事長、自民党の横暴ぶりを世に振りかざし、何が悪いのかと啖呵を切る始末、

豪を煮やしたSHKトリオが次の選挙で仕掛ける模様、さてどうなる。

因みにSは世耕、Hは林、Kは河野太郎、自民も内部崩壊が始まったか、、、。

「林氏は2021年、『次期衆院選で山口3区へ鞍替えする』と宣言しましたが、同区は二階派河村建夫官房長官の地元で、二階氏は林氏に激怒した。二階氏は、『売られた喧嘩は買う』と集会で啖呵を切ったが、林氏も折れる気はなく、無所属でも出馬するつもりです。

 河野氏が “ワクチン担当” をまかされた件も、二階氏は『誰でもやれるのに』と、起用に不快感を露わにした。官邸からの根回しがなかったそうなんですが、このところ菅首相と二階氏のあいだには、隙間風が吹いている。

政界は一寸先が闇の世界、何があっても可笑しく無い。

コロナ禍の中、不謹慎だが、健康マージャンをして来た、感染対策は厳重に行いトイレに行ってもアルコール消毒は守ってる、

きのうも一人勝ち申し訳なく感じてしまう、ふらないマージャンをしてるだけなんだが、、。

半キャンに一回はチャンスが巡ってくるもの、それを逃さずものにするだけで勝てる。一人でやってるじゃ無いってことか。。。

遂に降参したか、長かったなぁ〜

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北九州市議選では大敗するし、いよいよ新しい日本誕生の幕開きが始まるか、、、。

會津藩士子孫会が秋月悌次郎を人柄を紹介してた。

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悌次郎は会津藩150石の中士である丸山四郎右衛門の二男に生まれた。藩校日新館の成績は抜群で、飛び級で通常より2年早く卒業した秀才に対し、藩から分家「秋月家」の創設を認められた。
藩より江戸留学のお墨付きがでて、幕府の昌平坂学問所に入学した。

書生寮に入ったが、布団の中で寝たのを寮生は誰も見たことがないというぐらいに勉学に励んだ。

 勉学への姿勢と品行が評価され、間もなく書生寮の舎長に任命された。江戸に学ぶこと14年、退寮にあたり悌次郎の真摯な姿勢に、住んだ部屋は「秋月先生苦学の間」として保存されたという。

 安政6年(1859)、悌次郎に「中国、四国、九州の諸藩をまわり状況を報告せよ」と藩命がでた。
若い会津藩松平容保は、時代が激しく動いていることを察知し、長く昌平坂学問所で舎長を務め全国に学友を持った悌次郎を西国調査の大役を命じたのである。

 藩主の京都守護職拝命時、家老横山主税に公用方として抜擢され、容保に随従して上京した。ことに文久3年(1863)の禁門の変の会薩連合は、薩摩藩士高崎左太郎が悌次郎を訪ねてきたことが契機となり、高崎とともに政変の実行に奔走した。

 しかし、禁門の変後、悌次郎を登用した家老横山が死去すると、蝦夷地代官に左遷され、斜里代官所に赴任した。斜里に来て2年後の慶応3年(1868)の冬、会薩の修復改善のため京都に復帰を命じられ、厳冬の中を蝦夷地を後にした。しかし、悌次郎が蝦夷地にいる間に、京都では薩長同盟が成立し、翌年には将軍慶喜が大政を奉還することとなる。そして慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦い会津藩は敗走する。