9月11日(水)致知を読む

昨夜は8時過ぎに眠くなり寝てしまった。
今朝が12時10分に目が覚め、Facebook、メールのチェックをし、
致知を読んでいた、今月号は創刊35周年記念号で、心に残る特集が組まれている。
今朝は「偉人を育てた母の言葉」大坪信之コペル社長が紹介している、
偉人の背後には偉人の母がある、洋の東西を問わず、歴史に名を残した人物は、
幼少期に、どんな母親からどんな言葉をかけられて育ったかを紹介している。
我が郷里の偉人、野口英世は2歳児に火傷を負い左手が瑜着してしまう、
母シカは英世を立派な人に育てる為に身を粉にして働き、おまえはきっと学者になれる、
と言い続け一途に愛を捧げた、その後の英世は猛烈な勉強で医学に貢献して行った、
その影に母シカの姿がいつも付いていたのだろう。

中江藤樹の母への看病も凄い、27歳で武士への将来を捨て脱藩し小川村に戻って、
私塾を開き、多くの子弟を育てた、陽明学を学んだ藤樹に致良知はここから生まれた。
胎内にある間も母徳の教化あり、産み育ててくれた母に感謝し、孝行を尽くした。

福沢諭吉の事もある、「十億人の母あれど、我が母に勝る母なし、
お母さんの言葉こそが、その子の将来に大きく働きかける事になるのだ。

特攻の母、鳥濱トメが残した言葉、先人たちの努力の上に、
私たちの命はある、それを忘れてはならない。
富屋旅館三代目女将、鳥濱初代が語る、

大震災前だったか、JSERA全国大会が鹿児島であり、
知覧を訪れた、町には当時富屋食堂、今は富屋旅館が橋のたもとにあり、
記念館で散って行った特攻隊の一人一人の写真に只々手を合わせた記憶がある。
特攻隊員を「あれは犠牲だった」とか「行かされたんだよ」とか言ってるが、
彼らがなぜ行かなければならなかったのか、なにをまもりたかったのか、
どんな世の中を夢見ていたのか、ここに思いを寄せないと、知覧にはそう言う物が、
漂っている様に感じて来た。鳥濱トメの記憶は戦後変わり行く日本に特攻隊員の思いを
どう伝えて行けばと生涯かけたのであろう。

致知に載っていたものだ。
鳥濱トメが富屋旅館を開業したのは昭和二十七年。

戦後、特攻隊員のご遺族や生き残られた方々が
知覧を訪れた時、泊まるところがないと困るだろうと、
隊員さんたちが憩いの場としていた離れを買い取り、
旅館にしたのです。


「ここは、生きれども生きられなかった人たちが
 訪れていた場所。

 何かを感じ、自分が明日生きるという力に変えてほしい」


トメはそう願い、旅館業の傍ら、
平和の語り部として、この離れで隊員さんとの
エピソードなどを語っていました。

ここではその一部をご紹介したいと思います。


       * *


光山文博さんは厳しい訓練が続く中、
休みになると必ず富屋食堂を訪れていました。
しかし、隊員とは誰とも話さず、大人しくしている。
なんでこの子だけ独りぼっちなのだろうか。

トメは心配していました。
するとある日、光山さんはトメにこう告げたのです。


「僕、実は朝鮮人なんだ」


この方の母親は戦時中に亡くなり、
父親から日本男児として本望を遂げよと教育されたそうです。


「明日出撃なんだ。小母ちゃんだけだったよ、
 朝鮮人の僕に分け隔てなく接してくれたのは。
 お別れに僕の国の歌を歌っていいかな」


そう言って光山さんは帽子を深々と被り、
トメと共に祖国の歌『アリラン』を大声で涙ながらに歌いました。


「小母ちゃん、ありがとう。
 みんなと一緒に出撃していけるなんて、
 こんなに嬉しいことはないよ」


そう言い残して、飛び立っていったのが光山文博さん、
二十四歳なのです。



もう一人は、十九歳の中島豊蔵さん。

中島さんは右手を骨折していたため、
なかなか出撃の許可が下りませんでした。
しかし、いま行かなければ日本は負けてしまう。
その並々ならぬ思いで司令部に掛け合い、
ついに許可が出たのです。

出撃前夜、トメは骨折で長くお風呂に入れなかった
中島さんのために、せめて最後にこの子の背中を流そうと、
お風呂に入れてあげました。

ああ、この子ももういなくなるのか……。
そう思うと、トメの目に涙が溢れました。

しかし、涙を見せてしまうと、
中島さんの決意を鈍らせてしまう。
心を掻き乱してしまう。

トメは涙を堪えるため、とっさに身をかがめました。


「小母さん、どうしたんですか?」


「いや、お腹が痛くなって……」


 そう誤魔化すと、中島さんは、


「それなら、僕たちを見送らなくていいですよ。
 小母さんは自分の養生をなさってください」


明日飛び立つ自分の身よりも、
とっさについたトメの嘘にまで優しい心をかけてくれる。
そんな中島さんは翌朝、折れた右腕を
自転車のチューブで操縦桿に括りつけ出撃していったのです。


       * *


特攻平和記念館などに飾られている
十代後半から二十代前半の彼らの顔写真を拝見すると、
実に立派で、清々しく輝いた眼をしていらっしゃる。

それはやはり、彼らの中にぶれない軸が
一本通っていたからなのだと思います。


トメは平和の語り部として語る時、
いつもこう言っていました。


「私は多くの命を見送った。
 引き留めることも、慰めることもできなくて、
 ただただあの子らの魂の平安を願うことしかできなかった。
 だから、生きていってほしい。命が大切だ」


されど、書き残した物の中には


「善きことのみを念ぜよ。

 必ず善きことくる。

 命よりも大切なものがある。

 それは徳を貫くこと」


とも記されています。

この言葉を見るにつけ、後の世の幸福を願って
命を賭した隊員さんたちの姿が思い起こされてなりません。