12月12日(金)知恵泉、保科正之

2時起床、Facebook、メールのチェック、
ノーベル賞受賞式の様子、昨日株が暴落した、なぜだ、、、
選挙で自民、公明が圧勝すれば間違いなく株は高騰する、

12/2・12/9と2週に渡って、NHK知恵泉保科正之の生涯を放映した。
正之を知れば知るほど誰もが感動する江戸時代切っての名君、
正之は会津藩の藩祖だ、

正之は二代将軍秀忠の実子、母親お静は浪人も娘、
身分が低いため隠すようにして育てられた、
見性院の保護で信州高遠藩に養子となる、
幕府に仕えても素性を明かす事はなかった、謙虚な振る舞いだった、
自分の異母弟と知った三代将軍家光は、その姿勢に感動し、
幼子家綱の補佐役に任命する、
大事件や災害が続く中、正之は補佐役として斬新な策を次々と打ち出し幕閣を助ける、
世にあまり知られてないのは、補佐役に徹し功績は残さず焼いてしまっている。
玉川上水を引いたのも正之、
江戸の人口が飛躍的に伸びたのも庶民を思う正之の策が受けたからだ。
ここまでが前編、

会津藩主としての正之は、疲弊していた会津を立て直す策を打ち出す、
検知をして石高を見直す、荒地からの年貢は免除した、
高遠3万石、山形20万石、会津に23万石で移封した、
家来も高遠から、山形から多くの家来が付いて来た、
領民と信頼関係を築くには、都合よく盛るな、正直に生きる事を教えた、
困っているにとこそ見捨てるな、子供の間引き禁止令、
凶作に備え、社倉制度を作った5万俵の備蓄で飢えを凌ぐ為、
無利子で米を貸し出した、
病んだ旅人は宿主が医者に見せよ、代金が無い時は藩が支払った。
90歳以上の老人には縁米を配り、長生きを奨励した。
数えれば切りがないほ藩の改革をした、
15箇条の家訓も敷いた、これが会津憲法となる、
正之は神道を貫いた、亡くなって土津様となった、
猪苗代に墓はある、本殿に祀られた正之に以後の藩主は一年の報告を正月に巻物として
奉納する慣わしがあった、会津でも出来事はこの巻物で全てが分かる、
正之は藩政を家世実紀に残した。