5月17日(木) 京都会津会への原稿

大阪の勇臣兄に原稿を頼まれ、思うがままの私の考えをしたためた。
京都邂逅
思い起こせば、47年も前になる、単身京都を目指した。
修学旅行で京都を訪れ、魅了したのである。
仲の良かった友二人と、意気投合し大学は絶対京都へ行くぞと決め受験勉強に入った。
当時、会津と京都はあまりにも遠く新幹線もなかった時代だ、東京より夜行列車に振られて入試に望んだ、
同志社立命館どちらかにひっかかれば最高、当時はデーターが少なく、実際に受験して見ないと分からなかった。
私は運良く立命館に入る事が出来たのである。
京都と会津の関わりなど当時の私には知る術もなく、歴史にも疎く、勉強もしてなかった、ですから黒谷金戒光明寺へは一度も行ったことが無かった。
守護職がなんたるかも知らず、孝明天皇とか、鳥羽伏見の戦いとか、詳しくは知らずに卒業をしてしまった。
学生時代は単位を取得して、卒論を書き上げ、就職試験を受け、そこそこの会社にいければそれで良かった。
立命館大学は全国から学生が集まり、サークルはワンゲル部に入り多くの仲間と日本中をザック一つで旅をしたのが財産になった、だから今でも交流が盛んに行われている。
化学科を卒業した私はスポーツ店の親父に治まっているのも頷ける。
妻も同郷だが京都女子大に進み、同郷のよしみで卒業後結婚し、スポーツ店を創業し現在に至っている。
息子たち二人は何故かスポーツ店を支えることになり、お陰で私達は自由の身、第二の人生を謳歌できる身分になったのである。

京都に憧れたのにはもう一つの訳があった、亡くなった父(勇吉)が無類の旅好き、中でも京都へは何度となく足を運び、旅日記を魁新聞に投稿していた、
私が京都の大学を受けると決めた時、一番喜んでくれたのが父であった。

私は嵐山の天龍寺塔頭、永明院で4年間過ごした、天龍寺貫主関牧翁氏は慶応大学医学部の出身、禅の修行を積み
貫主になられた、学生時代に父と一度お会いしたことがある、難しいことは一言も言わず、思うがまま、自分に偽らず、人に優しく、不思議なオーラを感じた事を記憶している、。
そんなこんなの縁で会津と京都の関係に興味を持つようになり、今では年に二、三度は訪れるようになった。
守護職時代の会津武士になり切って、根掘り葉堀り聞きまくっている、容保公が肌身離さず持っていた御宸翰は孝明天皇が容保公を一番に頼りに預けた信任状だった、
来年はNHK大河ドラマで八重の桜が始まる、明治に入って京都で活躍した会津人は多くいる、山川健次郎山本覚馬
秋月悌二郎など大正3年山川健次郎は京都大の総長を兼任している、わずか10ヶ月ではあったが会津武士の生き残りとして大きな役割を果たした、健次郎編纂した京都守護職始末で戊辰戦争の全容を明らかにした、公用方として活躍した秋月悌次郎の足跡、紐どけば史実がゴロゴロしている、
丈夫ないうちにジパングを利用して年に何度か訪れて見たい。

こんな原稿を投稿した。