一週間の整理をし、なにわや印刷の法要に出る、
93歳まで元気で過ごされ、突然の事だったと言う、
勇一君曰く、立派で良く働き、頭が上がらなかったと言う。
昨日の荒れた天気は打って変わり晴れ上がった、法界寺の住職
何時もの如く、聞き取れない口調でお経を上げ、
法話を長々と話した、何遍か聞いているので飽きてしまう、
住職は、人間如何に生きるべきかを聞かせているのだろうが、
留めて置くほども法話でもなかった。
躾(しつけ)という字はまことにうまくできている。
身体を美しくする、体をきれいにする、
人間の在り方・生き方・動き方を美しくするという、これは躾だ。
美しくするということは、つまり良くするということである。
食事でも作法というものは、自然なもので非常に美しい。
箸(はし)やお椀(わん)の蓋(ふた)の取り方でも、
作法通りすれば実に合理的である。
つまり、道徳とか躾というものは、人間の生活、人間の在り様、
人間の動き方というものをいかに自然にするか、
いかに真実にするかということである。
人間が獣でなくて人間らしく生きる道が道徳で、
それは極めて自然であって、理屈でも手投でもなんでもない。
真実、自然のことなのであります。
『安岡正篤活学一日一言』より(致知出版社)
わたやでもてなしがあった、坂下の法要宴だけはどこも引けを取らない、
美味しかった、