8月1日(日) 立山へ

昨日はオオミヤスポーツの社長右而さんの告別式に行ってきた
人望厚く一昨夜の通夜には500人の参列があったそうだ、昨日も600人ぐらいは
来ていた様だ
業界関係はもとより、テニス愛好者、ロータリー関係者、大宮さんの人柄がそうさせたのだろう


人の生き様は告別式に現れるという、奥様の最後のご挨拶には
頼まれれば断りきれず、困った人がいれば手を貸す、表裏の無いとても誠実な夫でありました
皆様との良きご縁に恵まれて実り多き幸せな人生に彼方から感謝していると存じます、精一杯
社業発展に努力をし、世の中にも充分貢献した夫は幸せでした、
と気丈夫に挨拶をされた
弔電披露は何百通も来たであろう、3通のみ紹介したがその中に私の弔電を紹介してくれた
大宮さんとは30年来の友、何時までも私の中には生き続けろであろう

終わって山本五十六記念館、河井継之助記念館を訪れた

以前から一度は訪れたいと思っていた、
河井は幕末に長岡藩家老に若くして抜擢され
藩改革に翻弄、
困窮していた藩財政を建て直し中立を標榜し貿易を持って藩体制を確立するという
広大な構想を描いていた、
西軍は従がわざる藩は即刻取り潰すという勢いで駆け巡った
河井の構想を踏みにじった慈眼寺の会談、岩村若造に牙を剥いた
北越戦争はカトリング砲が火を噴き、壮烈な戦いをした、
河井は太股に銃弾を受け指揮を執ることあたわず
八十里越えをして只見に落ち延びた、
慶応4年8月5日に塩沢で絶えた
司馬遼太郎の「峠」は河井継之助を主人公に描かれた歴史小説
河井を世に広めた
河井の言葉に「地下百尺底の心を以って、世に立ち事に当れり」
学問というものは、実行しなければ、何の役にも立たないものである」
あの時代、自信に溢れた采配を振るった気骨人であった

山本五十六は明治16年高野家で産声を上げ、山本帯刀家の入った幼少より聡明で中学の頃から
ベンジャミン・フランクリンを尊敬、猛勉強の末、広い視野を持ち海軍の道へと進む
妻は会津藩士族の娘、三橋康守の三女、玲子と結婚、
文武両道、質実剛健、常在戦場の精神に磨きをかけ、広い視野で世界を見ていた
日清、日露の海戦まではどうにか勝てたが大東亜戦争はすべきではない事を主張していた
その証拠に日独伊三国同盟には断固反対した、
大国アメリカと対戦して勝てるはずがないことを一番していたのは山本であったろう
柴五郎も「ある明治人の記録」にこの戦は負けです、ときっぱりと言っていた
昭和18年、ブーベンビル島で戦死
五十六の息子(義正)が上梓した「父山本五十六」を買って来た
早速、読んでみたい、8月は終戦記念日、広島原爆記念と戦争を考える月だ
今夜、龍馬伝を見たら富山へ出かける、立山に登る、帰りに長岡の花火を見れたら最高だ