2時起床、Facebook、メールのチェック、
大阪から二番目の兄貴が法要で帰郷、
昨夜は、秋の夜長を酌み交わしながら語り合った。
お互いに大病をせず、兄弟四人が両親の供養をする、
これが最後かも知れない、
古希を終えた二人、仲間も一人二人と欠けて行って寂しい思いをしてるだろう。
私は末っ子だから順番からすると最後まで見送る立場なんだろうが、
こればっかしはいつお迎えに来るかは神のみぞ知るってとこか、、、
亡父は27回忌、昭和63年12月3日に亡くなった、
明治44年生まれなので、83歳で亡くなった、
亡母は、大正4年2月25日生まれ、92歳でこの世を去った。
父勇吉は読書家、旅が飯よりも好きで、旅好き友達を誘ってよく出かけたようだ、
決まってサイン帳と本を携帯し、
帰れば早速紀行文を書き上げ魁新聞社へ投稿、
翌日には随想文が載ってる、
関係各者へそれを郵送する、これが日課だったような気がする、
自分で出した随想集、亡くなってお仲間が編纂してくれた第二集、
今は亡き二瓶義春さんが音頭取って下さった、尾瀬の事が多い、
二人で作った「尾瀬を守る会」平野紀子との初対面シーン、清四郎小屋との出会い、
星米子、周一のエピソード、最後のみちのくの旅、
思い出多き人生を歩き通した、挨拶は短く、
「桑原勇吉です、三分間挨拶をします」要点をビシッと簡潔に実に分かり易く、
笑うを振りまき、サラッとする様は鮮やかだったと言う、
商売は本気で
名誉職は短く
講演会は一番前で
晩年のみちのく旅では、自作の戒名を言って笑いを取った、
仁徳院殿文譽醤油発展大居士霊
自分の生き様を素直に表したようだ。
晩年、老残、残生いくばくもなし、日向書斎に篭り、本をめくっては夢でも見ていたのだろう、
汗牛充棟、買いあさった蔵書は坂下一ではなかったか。
佐原病院ベットから詩った詩がある
「冬の空廓廖として、影もなし、あまりにも寂し鴉など飛べ」
啄木の詩が一番好きだった亡父、啄木の詩にも、
「冬の空廓廖として影もなし、あまりにも寂し鳥など飛べ」とある、
啄木の詩集でも読んでいたのか、
「窓近くよたたと黒きものあり、からすにゃ あらなん」
2時を過ぎて、
「草紅葉 八幡平の山並みに 一きわ高く 岩手山見ゆ」
その後眠るように息を絶えた。
母も92歳まで、人に迷惑をかけず笑顔を絶やさず、冗談が好きでった、
伊東正義さんの計らいで園遊会へ招かれた事もある、
天皇陛下にも挨拶された、
風のようにすうと消えていった。
私はこの両親に恵まれ、沢山の教えを受け、
曲がりなりにも人様に迷惑をかけず、
生きてこられたことに感謝してる。
これから紅葉狩りへ出かける、さてどこへ行くか、つむじクラへも案内したいし、
ゴールドラインからバレーライン、スカイラインから安達太良山、こんなコースもいいなぁ、、、