10月17日(日)古川利意先生回顧展へ束松峠ウォーキングには参加できず、

2時起床、数独ソリティアは欠かさない寝起きの脳トレ、今日からぐんと冷えて来るらしいやっと紅葉が始まるか🍁?

笠井尚氏のface bookに雲井龍雄秋月悌次郎山川健次郎のことが詳しく書かれている

「雲井の長州人脈と会津」いつだったか米沢に有るお墓に手を合わす。
 雲井龍雄の長州人脈のおかげで、会津は救われたように思えてなりません。雲井の京都での工作は、西軍の本隊が江戸に向かって出発する直前まで行われ、その相手の中心人物は広沢真臣でした。長州では俗論党や正義派のどちらにも属さず、会津に対しても討伐の先頭に立ちませんでした。雲井と仲が良かったことは確かで、会津救済のための相談にも乗っていました。明治4年1月9日に暗殺されていますが、雲井がさらし首の国事犯になったことと関係があるかどうかは、歴史の闇に包まれています。
 さらに、注目すべきは、白虎隊士から東京帝国大学総長になった山川健次郎らの面倒をみた長州の前原一誠や奥平謙輔と、広沢との関係です。前原と奥平が明治6年に萩の乱を起こしますが、木戸孝允(たかよし)らが主導した明治政府とは早い段階で一線を画しました。
 山川らの面倒をみてもらうために、越後口の水原で奥平と対面した会津藩秋月悌次郎は、帰り道の束松峠において、下記のような漢詩をつくっています。僕の好きな漢詩で何度も引用していますが、「賊軍」となった会津の悲劇を語っています。

「故ありて北越に潜行し帰途得る所」
行くに輿(こし)無く帰るに家無し 
国破れて孤城雀鴉(じゃくあ)乱る
治は功を奏せず戦略無し 
微臣罪有り複貫日(かんじつ)至誠に発す
恩賜の赦書応(まさ)に遠きに非(あら)ざるべし
幾度か手を額にして京城を望む
之を思い之を思うて夕晨(ゆうべあした)に達す 
愁いは胸臆に満ち涙巾(きん)を沾(うるお)す
風は淅瀝(せきれき)として雲惨澹(さんたん)たり 
何(いず)れの地に君を置き又親を置かん

兄勇蔵の発案で束松峠から鶴ヶ城を眺め謳った北越潜行の詩の碑を建てた、

古川利意先生が束松峠を歩くを企画、第一回目に参加したことを思い出す、越後と会津を結ぶ街道だった。

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95歳でこの世を去った熊先生、趣味多彩いつも言ってたことは「好きなことをして死ぬまで生きていけばいい」

ごく自然体、ストレスを持たず誰とでも静かに語り合う不思議な先生だった、

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遺品の数々を見て思った事を絵日誌に書き留める、版画に仕上げる、会津地方の歴史編纂にほとんど携わってる。

著書も多い、バイクを離さず、どこへでも顔を出し、語りかける

思い出は尽きない、スキークラブの事、文化遺産のあれこれ、、いろいろとご教授頂いた。

坂下の文化人三傑は、古川利意先生、桑原勇吉我が父、斎藤清氏だろう、私はこの3人に少なからず影響を受けた。